日記
西暦2006年 五月二十六日
くしくも私はこの三日前に二十一歳の誕生日を迎えた。その余韻はもうない。いや、私にとってもう年齢の数など気にもならないのである。その原因は分からない。しかし私は、この年になって昔の出来事を回想する。少年、青年期時代の誕生日を迎えるときの輝かしい思い出、それが私の主な考えごとである。その歓喜、微笑み、それが過去の私と現在の私との隔絶を想起させる。そんな中、私はこうおもった。昔は辛かったと。その苦しみの中に起こる一つの幸福、それが誕生日であった。それが私を喜ばせたのである。だが今の私にそれは無い。なぜなら今の私は昔と比べてあまりにも幸せだからである。過去に起きた向精神薬による廃人状態の日々、それはまさに地獄であった。私はそれを振り返りながら現在の幸福を思う存分味わっている。けれどもそれは主観的なことである。今も私は辛い状況にあるかもしれない。不眠症、インスピレーションの後に起きる激しい鬱状態。その激動の中、私は今を生きているのである。そんな状態の私を鑑みた人は私に向かってこういう、「お前は大変だな。」と。しかし私は昔と今を比べてさほど大変であるとは思わない。それは前にも述べた。その見解の相違、それ自身が幸福の起源にも関連してくる。
「人は苦労を重ねたほど、自らを慰める方法を覚える。」
この格言ほど、人の幸、不幸を如実に表すものはない。少し老人じみた私は少なくともそう思う。
さて一通りの告白も終えたことであるし、今日考えた事柄を話したいと思う。
今日、私は自分が傲慢であるかもしれないという思いに囚われた。その理由はこうである。一昨日私は友人との会話の中で散々自分の知識、知恵をひけらかした。それは至極当然であったかもしれない。しかし私の中にはその時の友人の顔が浮かんでくるのである。彼の顔にはひどく自尊心を傷つけられたという印象があった。彼の顔は少しもの哀しげで、陰鬱であった。その顔を思い出すたびに私は胸をひどく締め付けられる思いがする。その陰影が私の脳髄にこびりついてはなれない。その苦悩の中、私はこう思った。人に対して自分の優れた部分をひけらかすべきではないと。私は今もそう煙草の煙が頭の上を漂う中思う。
世渡りの下手さ、人との接触の不器用さ。それは私の生来的なものかもしれない。毎日あせくさと、勉学をいそしみ、その挙句友人たちとの距離が離れてゆく。これが私の宿命なのかもしれない。そして結局私は孤独になってゆく。これが私の今の状態である。
しかし私はこの頃ふとある衝動に駆られるときがある。それは人恋しさから起こる衝動である。人に会いたい、そして話をしたい。それは人間として、当たり前のことであるかもしれない。そのときに私はこう思った。私はまだ孤独に耐えうるほどに強くないのかもしれないと。そしていつ来るかも分からない人々の声を待ちわびている自分がいるのである。これが今日考えたことである。
五月二十八日
今日は教会へ行った。その教会の宗派はここに記さずに置こう。なぜなら宗派などというものは小さな矮小なものでしかないからだ。
そして、そこで起こった出来事はこうであった。福音の勉強、洗礼の儀式の観照。これらは退屈であった。宗教にありがちな集団迎合主義、それに私はどうしてもなじめないのである。だから私にとってこれらの出来事は退屈に他ならなかった。しかし一つだけ興味深いことがあった。それは宣教師から受けた個人授業である。このときが一番楽しい。なぜならそこに個人と個人との個性のやり取りがあるからだ。その授業、それだけが私を楽しませる。そして若い宣教師、二人と会い、会話をする中でこういう出来事があった。まず彼らは私の前に座し、こうさとした。「あなたは、聖書を読む中でどういう印象を受けましたか?」と。すぐさま私は率直に聖書を眺め、さっと読み通し、こう述べた。
「聖人となるものは、最も善い者であり、またもっとも悪い者である。」と。
すると彼らはこう述べた。それは聖書に書かれていますと。そして彼ら続けて、何のためらいも無く、自分の意見をあけすけ無く述べた。それを聴いているとき、私はうれしくてたまらなかった。彼らの真剣な目つき、彼らの率直な態度。それら全てが私の心を占有していたのである。そのひと時の幸福の中、私はこう思った。
「人は、一見教義に縛られていようとも、そこに大きな隔たりがある。」と。
彼らは、一見教義に縛られているかもしれない。しかしそこに限りない思想がある。私はそれを聴くのがうれしくてたまらなかったのである。結論から言えばこれは自己満足かもしれない。だがそこには、人生の中で数少ない出会いが含まれている。その出会いが私にとっては、うれしくてたまらなかったのである。そこでは今まで感じていた孤独とは違う、一つの感情が生まれる。それこそが友情なのである。そして彼らはまたこうも言った。
「あなたはとても優れているので、私たちの手には負えません。しかしあなたが迷っていることは分かります。」と。
その言葉を最後に聞いた私は驚愕した。自らの虚栄心の強さのために強情を張り、人を欺く自分。それを見透かされたことに私は驚いたのである。けれど私はその談話の中で眉毛一つ動かさず、淡々と話をしていた。おお、何たる矛盾。自己の感情を表に出さず、人を動かすことなどできるのであろうか?私は自問自答した。自らに科した掟に背くわけにはいかないと。その掟はこうである。私は将来、世界の指導者となる対と望む野心家である。そこには特定の宗派に属するということは許されない。もしそれを破れば、宗派間の争いを招くことになりえるからである。だから私はしぶしぶ現在の中立家の立場に立っている。これはすでに十八歳のときに決めた掟である。しかし今日ほどこの掟の厳しさを実感した日は無い。それが今日最も感じたことである。
五月三十日
この日は朝早く目覚めた。何をするわけでもなく早く目覚めた。結局その原因は単純な要素に還元されるのを私は知っている。私は不眠症なのだ。だから薬の効き目が悪く私は気だるそうな体を持ち上げ、朝早く目を覚ました。私は不快だった。自らの体の脆弱性。それに不快感を覚えたのである。しかしそのこともあまり私の気には止まらない。それは至極当然なのだ。豊かな感受性、そして非凡な頭脳。それと引き換えに私は、この体を神に提供したに過ぎない。そのことはよく分かっている。私はそう自分を慰めながら、いつものように布団にねっころがりながら、本を読んでいた。その本の題名はドンキ・ホーテである。私はこの本をその日中に読み終え、こう思った。
「セルバンテスは、機知の天才である。そして彼は先見的な目をもち、世を見ている。その文章中には些細な間違いが目立つ。しかしそれは本当に些細である。むしろ反対にその些細な間違いがこちらの虚を誘い、物語の深遠さを説く手がかりになっている。」と。
そして私はそのおよそ二千五百ページに渡る物語を本棚に初々しくしまい、次の本を手に取った。その本の題名はラモーの甥である。この本は前に一度通読した。その時の印象があまりに強烈だったために私はまたこの本を手にしたのである。私はこの本を数ページ通読し、すぐさまこう思った。
「フランス人の諷刺の効いたユーモアは、今も昔も変わらない。」と。
ディドロ、彼と親しい親交を持ったルソーが告白で述べているように彼は千変怪奇な生き物である。晩年、追跡妄想にかかったルソーが彼を非難しているのは実に忍びないが、私はディドロをルソーが言うほどひどい人物だとは思わない。なぜなら時間に無頓着なのはフランス、イタリアでは当たり前であり、そのことに立腹したルソーがあまりに滑稽に映ったからである。私は少なくともその確信を持ち、ディドロを擁護する。それは当たり前だ。いちいち人間の欠点を上げていたら限が無い。そのことにとやかく文句をつけるルソーが間違っているのである。しかしこんなことを述べる私はルソーも好きである。確かに彼の人間不平等論、社会契約論には空中楼閣が所々に見える。そこを見抜いたショーペン・ハウアーが彼を、「リズムを欠いたハーモニーだけの哲学者。」と言ったことも確かに正しい。だがそれはロココ時代におけるヨーロッパ文化の渦中におけるひと時の閃光であったことは、言うまでもない。彼の思想は、ロベス・ピエールを揺り動かし、一つの革命を起こした。ルソーの論文には理想郷がある。それにたぶんロベス・ピエールは揺り動かされたのである。そして私はその暴君の末路を目にし、こう思った。
「理想を求めすぎるあまりに現実を否定した男。彼は賞賛に値する道徳家でもあったかもしれない。しかし理想と現実はあまりに違う。時にそれは激しい倒錯を引き起こす。それを認識せずに世を闊歩すれば、それは悲劇を巻き起こす。」と。
道徳家、預言者、聖者、これらの言葉を聞いたとき私はいつもニーチェの言葉を脳裏に思い浮かべる。
「道徳家はもっとも善き人間であり、そして最悪の人間である。」と。
六月一日
今日はいやに暑い日だった。その暑さの中、今日は何もせずに過ごした。そして私の頭には昔の賢人の言葉が浮かんできた。彼いわく、こう言う言葉がある。
「賢者は、余暇を必要とする。」
この言葉の真意はこうである。考え事をするにはぜひとも余暇を必要とする。だから賢者は余暇を絶対に必要とする、という訳である。
しかしその余暇がたっぷりとあった今日、私は本当に何もしなかった。した事と言えば自分の見た夢を精神医学的に解釈する、夢分析だけである。
この夢はこうであった。私はある山を重い荷物を背負い、登山している。すると突然少年が道端の石垣に腰掛けているのが目に入った。その少年の名前は永井荷風であった。彼は私に言葉にならない言葉をかけてきた。だが私はその少年を尻目にぐんぐんと足を速めた。と、ここで私の夢は終わりを告げた。
この夢の結論は簡単である。分析過程にまず山が何の象徴であるかという疑問が出てくる。それは私の自己分析の結果、人生と権力への執着心という結論に落ち着く。その理由は、前にも述べたと思う。私の野心、そしてそれに付随するさまざまな欲心。それらが結びつき、これらの夢を見させているのだ。私は少なくともそう夢の中に出てきた山については結論付けた。
それから次に少年の象徴は何を示しているのか? という疑問が出てくる。それも権力と深い結びつきを見せる。まずなぜ人物が少年なのか? と、言えば、それは私の虚栄心のせいであろう。少なくとも私の虚栄心がその永井荷風という、高名な作家を少年に貶め、そう見させているのである。それが理由である。
さてもうこの話はお仕舞いにしよう。これ以上こんなことをだらだらと日記に書いてもしょうがないであろう。私はそう今日も頭の上に煙をくゆらせながら思う。
六月二日
今日は昨日とうって変わって涼しげな日であった。その後光の差し込む部屋の中で睡眠をとっていると、突如として電話の音が鳴り響いた。私はあわてて飛び起き、枕元にあった携帯電話を手に取った。その電話の主は私の友人であった。彼は私に昼飯と勉強を共にやらないかと尋ねてきた。私は寝ぼけながらそれに二三度うなずき、返事をした。そしてあわただしい今日が始まった。時刻はすでに十二時。私は摂るものもとらず、急いで支度をした。風呂に着替え。それが私の念頭にちらついていた。そんなこんなで一時間が過ぎ、約束の時間がやって来た。私は友人に再度電話をかけ、来るように催促した。彼はそれにあっさりと同意し、すぐにうちの真下にやって来た。私は彼の用意した一台のバイクに飛び乗り、ヘルメットを深くかぶりこんだ。
最初に私は昼食を摂りに近くの中華飯店に連れて行かれた。そこではまあ、おいしくは無いが、そこそこの昼食が摂れた。こんな昼食でもまだイングランドの昼食よりはましだ、と、心に鞭打ち私はまた道を颯爽と行く。その道中受ける風で私は目を涙ぐませながらも初夏の暖かみを感じていた。
次にいった場所は銀行である。私はその場所でなにやら騒がしい光景を目撃した。それは一人の男性が銀行員たちともめている光景であった。その光景をしばらく眺めて私は一つこう思った。
「彼はよほど暇なのであろう。」と。
そしてお次に行ったのは図書館であった。そこでは呑気に本を読み、時間をつぶした。これが今日一日の出来事である。何のことはない、つまらない一日、それだけであった。
六月二十九日
今日は先日お願いしていた会社から電話があった。それは求人の案内についての電話であった。私はその会話の中で先方の会社の形態を抜かりなく細かく聞き出し、相手方の事情を知るとともに、こちらからもいくつかの質問を出し、相手方の意向を探った。その会話の中で私としては好感が持てたと思う。しかしこういう時こそ気を緩めてはならない。いくら楽天的な見解を抱こうが、それは慢心としてしかならない。その慢心が化けの皮をはがさぬように特と肝を銘ずる必要がありそうだ。気分が朗らかなときに平静を保ちたいときは、その反対のことを考える。つまり楽天的な見解に相反する悲観的な見方を対立させるということである。そうすれば多少のことにはびくともせず、平静を保って道を歩けるというものだ。反対に嫌なことが起こった場合には朗らかなことを想像し、気持を和らげる。そういう事があってこそ、人生という長い航路を進んでいけるというものだ。私はそういう慢心を冒さぬように、心に規律を科し、前進しようと思う。
「人生の華やかなるは幻で、夢は塵埃の如く、我の手からこぼれ落ちてゆく。」
七月五日
今日は朝から忙しかった。会社の面接に忙しかったのだ。その会社の面接官の体は逞しいがなんとなく心細い人であった。彼の目には光はあるが、何かその背後に不安が隠されているような感じであった。彼は私に期待をしている言い、そして手厚く私の面接をみっちり二時間した。彼はその話の中でも私の才気が所々にほとばしるのが、うれしいらしく、どうやら好感触を持たれたようだ。私はその面接に無事に受かり、朗らかに会社を後にした。
そして私は前々から約束があった宣教師に連絡を取り、教会に行った。その時に私は雨降りしきる大雨の中、煙草をふかしながら、都会を疾走していた。私はしばらく電車に乗り、その後に教会に着いた。そこでは受付の女の人が私を見て声をかけてきた。彼女は穏和そうで、親しみは持てずとも普通の人であることは分かった。私は彼女に今日の予定を告げ、ある一角の部屋に案内された。その部屋は大きく、ゆうに畳二十畳分はあった。私はその部屋の隅に寄りかかりながら、本を読んでいた。そしてしばらくしてから宣教師の人達がやって来た。彼らは笑顔を作りながら、私に歩み寄り握手を求めた。私は彼らに促されるままに握手をし、早速用意された席に着いた。
私は彼らとたっぷり二時間話をした。その中で一人の宣教師が私を傲慢だとなじった時があった。その原因は私が自分自身聡明であるということを自認していることにどうやら問題があったようである。私はそのことをなぜ?おかしいのかと、彼らに尋ねたが彼らは無論日本語がうまく使えないためにちゃんとした答えは聞けなかった。彼らはどうやら勘違いをしているらしい。自分の頭の良さなど自分が一番良く知っている。それは真理だ。そう彼らに諭してもそれは何の役にも立たなかった。彼らはアメリカ人で日本語がよく分からない。そんな中私は自分に戒律を科し、自らを自制している。対等な立場に立ってこそ始めて討論というものは、要を成す。その掟が通用しなければ、もちろんこちらも譲歩しなければいけないのである。それよく分かっている。私は卑怯なことは嫌いなのだ、自分がどれだけ頭がいいのかは知っている。しかしそれは対等な立場に立ってこそ初めて、得られる答えである。私は自らに科したその掟のせいで散々辛苦をなめた。だが私はその中でもいくつかのことを学び、得るものも多かった。それだけは事実である。私はその思いを今日一番感じ、ここに記す。人々がいくら才能のある者を嫉もうとも、それが現実ではないと。
七月十七日
今日は何もない日であった。とはいっても常人ならば、長々と何か談義をここに連ねるのだろう。私もそのような彼らの姿勢を皮肉って、ここにいくつかのことを記したいと思う。私は元来天邪鬼でもあり、真っ正直な人間でもある。
前々から思っていた竜の小太郎第二話の構成が私の中では着々と進んでいる。しかしこの構想がいくらまとまりを見せてもそれが筆に下ろされるのはおそらく五、六年先のことであろう。そこに常に局部的な集中力が要求される。いわゆる職業作家と言う奴らはそれがさも必要ないと言わんばかりに冗長な筆捌きを見せている。こんな奴らと私は違うのである。そもそも私は生来上物書きに向いていたのであろう。したがって私は素直に自然の趣くままに時期が熟すのを長々と待ち、その霊感に満たされるのを熱望している。いや渇望していると言ったほうが適切であろう。私はその霊感に満たされているときに至高の幸福を感じる。いわくショーペンハウアーが「幸福とは個々人の内に宿るものであり、決して外的なものでない。」と言ったのは正しい。世間によく見られる金や女にかまけた馬鹿な輩たちはそのことを眼下にも入れず、この一見広いようで狭い世の中を疾走している。そんなことならば彼らはもっとも低級な動物に生まれてきたほうが良かったであろう。何も人間だけに幸福が宿ると言うものでもない。幸福と言う概念は人間にしか理解されないが、幸福と言う観念は万物に理解される。このことからいえるに自然に適した爬虫類、昆虫類、さらには植物のほうが彼らにとっては向いているであろう。だがいみじくも過去の哲学者たちが述べるようにこの世の幸福とは幻である。だからそんなことにいくら手管手練を弄しても、何のかいもない。そのことが彼らにいつの日か、分かるのだろうか?私はそのことを苦笑しながらいつも考える。
そういえば小説煉獄はもうすでにほとんど出来上がっている。ここにこの事を記すのは何の意味もないかもしれない。だが私は切に思う。将来優秀な人材たちがこの文章を読んだときにどう感じるかを。この煉獄とは序章に書いている通りに私の血生臭い半生を下地に描いた。この私の半生を鑑みたときに誰が一体、私のことを公言はばかって非難することができようか。果てしなく執り止めのない多大なる先入観。それらが私に常日頃訴えている言葉を私は甘んじて聞き入れなければならない。その甘言に私は耳を背けられない。そんなことはとうの昔に分かりきっていた。そのせいで私は自己の精神分析のある点を間違い、表記しているかもしれない。この現象が自分の根源的性質、叡知的性質に根ざしたものか、それとも唯単にメンデルの述べた遺伝の法則より下位の環境素因によってそれは育まれたものなのか。それが私にはこのごろとんと分からない。自分にいくら問うてもその答えは出ない。それもそのはずだ。人力の及ぶ力など多寡が知れている。ある面白い学者が哲学者とは、「鼠捕りで光を捕るものに等しい。」と述べたことは正しい。形而上学がそのような性質を帯びているのは辛苦燦々たる過去のお歴々のご苦労からも察せられる。しかし私たち哲学者はそれでも形而上学への認識をより深める必要がある。その必要性は物理学者、生理学者等などの文献を見れば分かることである。偉大な彼らのほとんどが最も上位の学問の哲学から力を授かり、その果てにその偉業を成し遂げたのである。このことの証明になる歴然たる資料の数々が私の目の前に今ある。私はそのことは心に深く刻み、この日記を書いている。それだけは事実である。誰のためでもなく、自分のみのために書く。ゲーテのイタリア紀行だってそうだったであろう。まさかゲーテがこの日記が誰かに読まれるとは予想だにもしなかった。そのことは彼のイタリア紀行の文体をよく彼の他の作品と比べてみれば分かる。ファウスト、ヴィルヘルムマイスターの修行時代、タッソー、それらの作品とこの作品はまったく違う色彩を奏でている。こんな事は誰が読んでもすぐ分かる。そんなことをとやかく言ってもしょうがない。ほとんどの人々が書物を何かの嗜み位にしか願慮していないのは先刻承知である。しかし私はそのことは感じてもこの事を述べたかったのである。
「人々が読み捨てる書物の命は尊きかな。」
人々の目には判断力がない。彼らの心に後悔はあっても、反省がない。彼らの目は節穴である。彼らの口は駝鳥の鳴く声とよく似ている。そんな奴らの言葉をいくら聞いてもしょうがないであろう。大手を振って往来を行く人々のほとんどが内容変わらず、姿は違えど、面持ち同じく。その手の中には何も無し。挙句の果てに心の中には感情ばかし。それがどうした兎さん。いくら彼らにセネカが、ソクラテスが訴えようとも、そんなことにはとんと関心払わぬ。それもそうさ、なんたって彼らは自分さえ良ければそれで良いんだからね。それが世の中の法則さ。人々の口に宿る概念の正体さ。それもそれも真の正体。醜い正体。しかしそれがどうした亀さんよ。当たり前だよそんなこと。彼らの本性はそんなものさ。
七月十九日
今日はショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」続編を寝そべりながら、読んでいた。毎回のことながら驚かされるが、彼の著作はすばらしい。今日、読んだ中身の中で、最も印象に残ったのは、学問において絶対的に前提とされるものは直観だ、と言う彼の言葉であった。無論自然科学、哲学等々において直観は重要な役割を果たす。と言うより、直観と言うものがなければ学問は成立しないのである。彼はそのことを滔々と述べていた。私はそのことを前々から考えており、それらの教説は私にとっては容易に理解できた。さらに驚かされたのが、彼の説く宗教の必要性についてである。私もこのことは教会に通いながらも、いつも考えていた。そして私はこの本を読む前に一つの結論を自分の内で出していた。これは処世哲学と理論哲学とのちょうど中間に位置する見解であろう。そのことを考慮して、なお話を続けると宗教とは大衆にとっては有意義なものであるが、天才にとっては足枷にしかならない、と言う結論に私は達した。それを擁護するようにショーペンハウアーも同じことをより具体的に分かりやすく述べていた。私はそのことを顧みて、哲学の深遠さ、それに形而上学という学問が衒った、衒学的なものではないという思いを一段と強くした。なぜなら本来はまったく違う人間であるはずの私たちがこれほどまでの見解の一致を認めるとは、信じがたいからだ。そしてそこにはどうしても形而下ではなく、形而上学を感じさせるものがあったからである。私はこのもっとも高尚な学問を自分で体得でき、しかもそれに一石を投じられることを快く思う。
次に今日、私が考えたことを簡潔に述べたいと思う。今日は考えたのはまさしく時間と重力との関係と言う深遠な問題であった。カントが述べたように空間とは我々にアプリオリに与えられたものである。それは頭の中で空想逞しく、想像すれば、すぐ分かることである。いくら思考実験を行なっても、そこから空間は除外されることはない。これこそがまさしく経験的哲学に立脚しながら、アプリオリな事象を解明する手段である。想像から任意に時間を排除することはできるが、空間は排除できない。まさにこれこそがアプリオリである所以を示す思考実験の結果である。
さて私が今日考えたことの本題に移ると、そこには否応なく絶対空間を打ち立てたニュートンのあからさまな間違いが暴露されることになる。質量×等速度=力 この原則をよく吟味し、それを再考していくとそこに甚だしい間違いがあることに気づく。物を動かすときに必然的に時間とさらに重力が付け加わる。これは思考実験の結果導き出せる。しかしニュートンの言うような絶対空間、三次元の世界ではこれは簡略化された形で提示されるだけにとどまる。このことからに言えるに物体をまったく静止している場合(これは不可能である。なぜならそこに必然的に重力が干渉し、さらに光などの微量な力をもった現象も干渉するからである。)、その場合にだけ彼の理論体系は成り立つ。だがこれは不可能なのである。物体が絶対静止状態にある状況は確かに想像できる。しかし現実的に見ればそこに不可避的に重力が介在し、物体を圧迫し続ける。これだけでもベクトル方向下向きに力が不断に加わっていることになる。この状態だけで、すでに物質にある一定の力が加わっていることになる。ここにニュートン力学の問題点があるのである。確かに彼は絶対空間と言う重力を度外視した、都合の良い物理体系を樹立させた。しかしそれだけでは明らかにこの世界の現象相互間の因果関係は把握されないのである。常に時間と重力とは仲むつまじく、親しい関係を持っている。そのためこの力のおおもとから重力を取り去ってしまうことはできない。速度と時間は合わさって、初めて等速度を成り立たせる。この点を彼は無視したわけである。だが私はその点をよく鑑み、彼の科学体系の根本を揺るがす一つの結論に達した。速度と時間、時間と重力、これらの組が不可分に結びつく以上、そこには当然三次元以上の時間を加えなければならない。このことはすでに自明の理としてアインシュタインがその一般相対性理論の中で述べていることである。私はアインシュタインとは辿った道は違うが、同じ結論に達した。私のような学者がその当時いれば、ニュートン力学の信奉者たちもさぞかし狼狽したことであろう。
七月二十五日
今日は仕事の新任研修へ行った。これは警備業には欠かせない重要な研修である。警備業法によって、それは規定されており、否応にもこの研修を私は受講しなければならなかった。今日は初日とあって色々な人が集まった。と、言っても集まったのはたったの四人。それでも教官の先生は淡々と授業を進め、私たちに種々様々なことを教示してくれた。しかし私はその授業の中で、何一つ目新しいことを発見できなかった。はっきり言って、こんな事はとうの昔に勉強し終わっている。だから私はそう感じたのである。一つ言っておくが、これは傲慢でも不遜でもない。これは私の正直な感想なのである。確かに学ぶことはあったが、その内容は限られていた。したがって私は大局を見て、こう結論付けたまでである。
さて、こんなことを阿呆みたいに述べていてもしょうがない。次はより重要なことについて話したいと思う。それは私の自伝小説「煉獄」についてである。前の日記には、それがほとんど出来上がっていると、書かれているが、その事を私は訂正しなければならない。なぜなら今の私にはいっそう深い思想が湧き出ているからだ。しかしここで一つ言って、おきたいことがある。今の私にインスピレーションはない。ただそれに近い状況が私の身に起こっていると言いたいのである。これからこの小説は大きく様変わりするであろう。私は、その小説が書かれた当時の作者の状態を、知りたいと望む、将来の読者のためにこう書いているのである。何も私を衒った人物として、描こうなどとは夢にも思ってはいない。それだけは、言っておく。今日はもう疲れたので、ここまでにする。どうか、将来の聡明な人々の目が、駄作に欺かれずに、真作を傍受するよう、ここに願うしだいである。
八月七日
今日は少し前に放擲した私の論文について語りたいと思う。この論文はもっぱら哲学的な純粋に理論的な事柄を滔々と述べたものである。主にそれは三つに分けられるであろう。十九歳のとき、アンリ・ベルクソンの「哲学的直観」を機に書いた、初稿の論文。これは種々様々なことを断章的に語ったものである。そこには今、眺めても新鮮な情景が映る。それは私の十代の終わりに書かれた論文であった。量は少ないが、その中には少々の真理と若き日の情熱が込められている。この論文のみが唯一しっかりとした形で顕現されている。
次に書いたのは、言語についてである。この論文は、ジャンジャック・ルソーの「人間不平等起源論」、「社会契約論」、この二つの書物からの影響を主に受けて書かれた。私は彼のようにつらつらとこの論文を書いた。しかしやはりそこにあったのは、空中楼閣であった。私はおよそ原稿用紙百枚ほどをその論文に費やした。はたしてその苦労が報われたのか、私には分からない。だが過去の偉人の事績を追い、それを自らのうちで感得したのは確かだった。この論文は将来、何かの形で断章的に発表されるかもしれない。しかし私はあえてそのことを望まない。この論文を最初に読んで落胆する、若き俊英たち。その彼らの表情を思い浮かべただけでも吐き気がする。私はそのためか、この論文を深くは見直さなかった。だがこのことが私の人生において、将来の天才たちにおいても意味を持つのは確かなことである。
三つ目の論文は、経験と感情と言う題であった。この論文は今までの論文の中で最も成熟したものである。だが私はなぜだか分からないが、この論文半ばでその手を止めた。この原因はたくさんある。まず文章に脈絡がない。それに曖昧な説明が多い。それらが主に私を悩ました。そして私は唇を噛み締めながら、この論文に封をした。しかしこの論文の中に偉大なる精神が込められているのは、確かである。私はこの論文をショーペンハウアー「意志と表象としての世界」を読んでから、書いた。彼の卓越した頭脳。さらにはそれに続く偉大なる思想。それらに私は圧倒された。しかし私の内なる魂には強い反抗心があった。ニーチェの言葉を借りれば、「権力への意志」とも言うべきものであった。それは飽くなき要求を私に叩きつけた。「お前は彼を超越しろ。」そのような要求であった。そして私はそれに従うが如く筆を執った、と言うわけである。しかし結果は散々なものであった。私は多種多様な本、論文を読み、深く考え、この論文を書いた。だがそこにあったのは、過去の学者、哲学者の本の注釈であった。私は愕然とした。自分がいくら必死になって、思い描き、思索しても彼らの足元にまでしか辿りつけなかった。このことが私を落胆させた。しかし私はこの論文の製作過程で大きな収穫を得た。それは後に出版される「竜の小太郎第一話」に描かれている。私はそれを鑑み、今もこう思う。彼らの足元からいつかは這い上がり、彼らの頭のてっぺんを射抜く。それが今の私の目標である。
八月八日
今日の日記は昨日の日記の補足として書こう、と思う。それらの論文を書くときの私はあまりに勇み足であった、と思う。私はそのことを十九歳のときにも他人から指摘された。その指摘した張本人は私に身辺警護の技術のいろはを教えてくれた横山氏であった。この先生は天才とまでとはいかずとも、非凡な人物である。この非凡な先生は私になぜ、君は焦るのか? と、他愛もない会話の中で唐突に切り出した。私はその時は何も言えなかった。その理由は主に二つある。考えを言葉によって表現することが、その当時の私にはできなかったこと、これが一つ目である。第二に私の中には漠然とした死への観念があった。自分は長くは生きられない。そう、私は思い込んでいる。もちろん今もそう思っている。しかしそのことを察した先生は私に「太く短く生きるのか?」と、あからさまな作り笑顔で尋ねてきた。私はその質問に笑って、こう答えた。「は、は、確かにそうですね。私の人生はそうなるでしょう。」と。
私はその時、ちょうど人生の臨界点にいた。これから始まるインスピレーションの予感を薄々感じていたのかもしれない。そしてこれから起こる人生の臨界点の兆しを私はすでに分かっていたのかもしれない。ともあれ、私は十九歳のときにそのような愉快な面々とお会いした。弁護士の丸山先生。この人も一風変わった人である。なぜか人食いをする異常犯罪者、発展途上国で行なわれる公開処刑、それらのことに彼は特に関心を持っていた。この人も一般の人々から見れば、いわゆる危ない人である。だがそれとは裏腹に彼の才能は卓越した非凡なものであった。この先生も私のことを認め、わたしに色々と助言をして下さった。しかしながら思うが、私はいつもこのような人物たちとよく接触を持つ。私の唯一尊敬する内山文生先生もそうである。この先生は今、八十歳である。その老齢にも関わらず、この先生の気迫はすごい。その眼光は鋭く、あまたの過酷な経験をしてきた私ですら身震いがするほどである。先生は旧日本陸軍の将校であり、また大蔵大臣の秘書官をも勤めた人であった。その先生は私によく説教をし、諭してくれた。この先生との出会いは、十七歳の時であった、と思う。私はその時からこの先生の恩恵の下で、囲碁に励んだ。毎日十時間以上、囲碁の勉強をし、それに対局をした。その結果私は異例の速さで囲碁の段をとり、今に至る。今の私の囲碁の腕前は、三段である。一応先生に言われたとおりに私は三段、だと碁会所では言う。しかしそれは少し低すぎるかもしれない。他の場所で碁を打っていても、よく言われる。「君は三段より、強い」と。だが私はあくまで先生の言いつけに従い、自分の腕前を過信せず、三段、だといつも他の場所に行ったときも言う。これは私の尊敬する先生が私に向かって、言った事だからそういうのである。これに深い意味はない。最後にそう付け加えておこう。
八月九日
さて一昨日から述べてきた話の内容がだいぶちぐはぐしてきてしまった。これは私の性格からくるものである。私は一貫した人生と言うものを好まない。したがって私は一つの話を長く書き連ねることができないのである。このことはどうしようもない。それは私にも分かっている。しかし才気溌剌たるものは、同じことを滔々と話はしない。すばらしい才能のあるものは、むしろその才能を持て余す。このことから言って、私もこの分類に入るであろう。名前は忘れたが、ある平凡な物理学者の本に、某先生は話を始めると感情的になり、論理的な会話を成立させることができない、と書いてあった。その某先生はどうやらアメリカの数学者らしい。おそらくこの先生も非凡なのであろう。だからこの先生も激しく口を動かし、時には痙攣させ、ちゃんとした話ができなくなってしまうのである。これらのことはすでにクレッチュマーの「天才の心理学」に述べられている。この本の中身はほとんど間違いがない。卓越した人物とはどこかおかしいものである。それは頭のどこかが狂っている様な印象を与える。これを見た一般の人々は彼を精神病院送りにするか、さもなくば変人、奇人程度に扱っておくことであろう。私もその範疇に属している。過去に何度か精神病院送りにされた経験もある。かの飛行船を最初に開発したツェッペリン伯爵もあやうく精神病院送りにされるところだったらしい。そして私の所見によれば、この精神異常をきたす病状群には特定の群がある、と思われる。まず思い当たるのが、価値観念である。この妄想とも取れる固執した執着心。何か目標を見つければ、それにまっしぐらに突き進む、闘牛のようにこの病にかかった人々はそうなる。これは偏執病とも言う。俗に言うパラノイスである。私にもこの病は見られる。だがそもそも偏執的な行為とは深く集中力と連関を持つ。私は一般に言われる集中力にもある程度の病的素質を見出す。普通の人々のほとんどはこの集中力を思春期に昇華し尽くす。このときに精神的不調をきたす場合が多い。精神科に行って見ても、若いほとんどの人々は思春期の青年、少女たちである。これは実地で体験したことである。彼らは自らの精神的構造、欲動構造を深く理解しておらずに、病院に足を運ぶ。しかし彼らは誤っている。そのことは当然であり、なおかつ将来のための布石となるのである。よって彼らはそのことを了解し、病的な偏執性疾患が高い才能の成長に寄与していることを理解すべきである。人間の人格、思索のほとんどは青年期までに完成される。それは天才とて同じことである。そのことに何の異論も沸かないはずである。人々が若きの日のことを回顧し、それを懐かしく思い出すのにもれっきとした理由があるのである。本来人というものは、自分自ら考えたことはよく思い出すことができる。その反対に書物の中身は容易に覚えられない。それに覚えたとしても何の値打ちもない。だからレッシングもこう言ったのである。
「書物は人を博学にはするが、人間にするものではない。」
私はこのことを鑑み、いつもこう思う。浅はかな大人たちがすぐに自分の子供の異変に気付き、彼らを病院送りにする。これは自分のことをしっかりと見つめていない、馬鹿な大人たちが行う愚かな行為である。ああ、なぜ君たちは、過去のことを回想し、そこから糧を得ないのか? その前に、君たちのやるべきことは一つだ。「汝自身を知れ。」この言葉の真意を感得し、それを熟慮の末、完全にものにできれば、あなたたち大人はもっと子供たち、特に思春期の子供たちに寛大になれるはずである。「昔、俺もこうなった覚えがある。」そのたった一つの考えが子供たちへの慈愛につながり、彼らを導く大人たちの指針にもなるのである。
八月二十一日
今日は久しぶりの休みである。しかしながら思うが、労働とはくだらないものである。労働とは非凡な者に十年一日の暮らしを無理強いさせ、我々を苦しめる。労働で得るものといったら、金ぐらいのものである。もし他に得るものがあるならば、その人は幸福である。そもそも大体の仕事が煩雑であり、つまらない。その中で自分にあった職業を見つけられるものは少ない。職業の選択の自由などこの世には存在しない。必然的に人とは自分の持ち前の能力で仕事を選ぶ。だがその人が非凡であれば、あるほどその人は職業選択の自由が狭まる。このことから言って、自由などという曖昧な概念を言葉に使用すべきではない。意志の自由などもそうである。誰に一体、意志の自由があるというのか?生物とはその根底に流れる遺伝的、生物学的、形而上学的真理を無視できるものではない。それをできるとほらを吹く人間はよほどの馬鹿か、よほどの気違いなのであろう。私はそのことを鑑みても、この世に自由はなく、人とはほとんど必然的に決定されていた力によって揺り動かされているものであるという、真理を強く支持する。とはいっても、大抵の人間にこんなことを言ってもしょうがない。彼らは何も知らず、欲望に従い、この世を生きている。こんな理性のかけらも無い人間どもに私は何も言う気すら、おこらない。
さて、そんなどうでもいい話をほって置いて、物語の核心に移ろう。私が何を描くにしても、その前には常に偉大なる天才たちが存在する。そして私はその書物が天才、もしくは少なくとも非凡なものによって、書かれた物か、直観的に把握した後に、相性を考慮する。相手が天才でしかも自分と相性が合うなど、稀も稀である。私の書棚にはおよそ二百冊以上の本があるが、その中で自分と相性が合ったものは少ない。片手で数えられるほどである。ショーペンハウアー、クレッチマー、セネカ、ルソー、ベルクソン、宮沢賢治、本因坊道策。これぐらいのものであろう。私がどれほど天才的であろうと、その底流には生物学的な基盤がある。これを簡単に言えば、私も所詮人間であり、人々が好むような嗜好や情欲から逃れられない、ということである。もちろん人々がいつも形容し、彫像にしたがる天才たちも人間である。彼らも人々と同じように悩み、その人生を生きた。時に笑い、時に泣き、彼らは情感豊かに生きたはずである。もっとも我々がクレッチマーの言うとおり、「人類中の稀有にして極端な変種。」であるにしても、そのことは変わらない。彼も私の見解と意を同じくし、天才についての書物を書いている。しかし我々は少なくとも主観的な立場から見て、自分のことを変種などとは思わない。むしろ自分の頭の中には狂気が渦巻き、常に己の魂を揺さぶっているのが、分かるぐらいである。そのことから言って、変種と呼ばれた天才は違和感を抱く。狂人と、呼ばれたほうがまだ違和感は無い。なぜならそれは我々も薄々感じていることだからである。そのことはここで一言しておきたい。あくまで我々が生きる、という言葉を使うのは主観的な事柄であり、他の物理的、自然科学的なことは客観的であり、本性的に言って我々の肌には合わない、ということを。